野口エッセイコンテスト 入賞作品
〜夢〜 10年後、あなたが成し遂げていること
野口エッセイコンテスト
入賞作品
〜夢〜 10年後、あなたが成し遂げていること
あれから10年、そして10年
I. はじめに
私は地方医学部の4年生で、成績も見た目も存在感も普通の学生だ。100人以上いる同級生の中で、自分だけにあるものは思い当たらない。しかし、東日本大震災の経験は私にしかないなとふと思った。変に同情されるのが嫌で友達にもあまり語らなかったが、震災を経験した者が医学部に入ったらそこで思わぬ苦労をしたことを誰かに伝えておきたいと思う。世界史にも残る大事件の最前線で⻘春を送り、医師を目指すことにした者として書き留めておく。
II. 10年前の夢
あと数日で小学校の卒業式だというとき、東日本大震災が起きた。当時、私は福島県の海沿いの地域で暮らしていた。高台から見た津波は本当に真っ黑で、街で唯一の大型スーパーをすうっと包み込んで消した。余震で地面がどんどんひび割れ、どこに立っていても怖い。ああ、このままあの波にのまれるかこの地面に沈んで死んでしまうのだろうか。幼いながらに、このとき凄まじい自然のパワーを感じた。自分はこの世に生かされているちっぽけな存在だということがはっきり分かった瞬間だった。
さらに、自宅は東京電力福島第一原発から15kmほどの距離にあったので、地震でぐちゃぐちゃになった部屋を片付けられないまま避難生活を余儀なくされた。そして、地震、津波、原発事故と立て続けに経験したことで、見えない大きな力が自分を襲おうとしているのではないかと怯えるようになった。
体育館での避難生活は大変不便なものだったが、段ボールで棚やテーブルを作ってみたり徐々に支援物資が増えたりと、生活が少しずつ豊かになっていくのは新鮮で楽しかった。2週間くらい経つと、自衛隊の方がテント式のお風呂を設営してくれたり、ボランティアの方々が炊き出しに来てくれたりもした。今まで当たり前だったお風呂に入ることや温かいご飯を食べることはこんなに幸せなことだったのか、と実感した。
原発事故はそのうち収束する、もうすぐ家に帰れると信じていたから頑張れたが、1ヶ月ほどしても帰れなかった。避難所からも立ち退かなくてはならなくなり、家族で隣街のアパートを借りた。避難指示の解除はそれから5年後となるとは思ってもいなかった。
その頃、小学校でお世話になった先輩が津波で亡くなったという知らせが入った。その先輩は、優しくてスポーツができて明るい性格で私にいろいろなことを教えてくれた。そんな素敵な人が亡くなって、私が生きているということが怖くなった。子供だった私は「良いことをすれば報われる」というような教えを信じていたので、何もとりえがない自分が生きていて、尊敬する先輩が死んでしまったということがショックだった。なぜあの人が、なぜ私は、と毎日のように考えた。生きているだけでバチが当たるような気がした。それがきっかけで「生き残った身なのだから世のため人のために働かなければ」と強く思うようになった。そうすれば救われる。生きていてもいいと神様は言ってくれる。
また、避難指示によって大好きだった友達と突然引き離されたこと、地元から出ていかないといけなかったことに強い未練があった。その悔しさから、将来は必ず地元に戻って働くんだと決めた。また、幼かった私は「世のため人のためになる職業は医者だ」と単純に結びつけてしまった。医師でなくとも他の仕事ももっと調べればよかったのにと思う。
そうして10年前の私は「医師になって地元に戻って働く」という夢を持った。
III. 近づく未来
津波や原発事故で住⺠が減り、入学した中学校は1学年たったの11人でスタートした。先生と生徒のケンカもしょっちゅうで授業にならない日もあるような田舎の中学だった。先生にも「医学部は相当難しいぞ」と言われたが、自分なりに作戦をたてて高校は進学校に入学し、無事に医学部に合格できた。
大学を受験した際の志願理由書には「卒業したら地元に戻って地域医療をしたい」と書いた。震災の悲しみと悔しさをバネにそれまで勉強してきたのだ。それまでずっと夢は変わらない。
順風満帆と言われればそうだった。たしかに努力はしたし、あれだけの災害を経験したのだからその後の人生は甘やかされてもいいだろう、なんて思っていた。しかしそんなはずはなく、大学3年生になると再び大きな試練が訪れた。
IV. 大学がつらい
3年生になると、循環器、呼吸器、消化器…などの診療科別の授業が始まった。そのなかには「放射線災害医療学」や「救急医療」というものがあり、東日本大震災についての話がたくさんあったのだ。実はそれまで震災を思い出すのが嫌で、震災関連のテレビや記事などはなるべく見ないようにしていた。「放射線」という単語さえ聞きたくなかった。後世に語り継ぐべき出来事だから目を背けてはいけないとわかっていたが、心が受け付けなかった。しかし、大学の授業となると出席しないと単位がもらえないので困った。いよいよ向き合うときが来たのだと思って我慢して講義を聞いていた。悲しさと悔しさで涙が出そうになるのを周りの友達にバレないように。
しかしあるとき、震災当時の写真や津波の映像が流れた。私がいた避難所の写真もあった。当時を鮮明に思い出して動悸がして冷や汗がでてくる。やめて!と思った瞬間、胸が痛くなり呼吸が苦しくなった。いくら吸っても息が苦しい。手は痺れ、指が開かない。とてつもない恐怖を感じて先生に言って保健室に運んでもらった。それが人生で初めての過呼吸発作だった。
この時をきっかけに、大学にいないときでも何をしている時でも突然過呼吸になるようになってしまった。病院ではパニック障害とのことだったが、これと説明がつかない様々な症状が重なり、辛い日々が始まった。
例えば、飛行機が怖くなって乗れなくなり、大好きだった海外旅行ができなくなった。次に新幹線も乗れなくなった。さらに人の言うことが信用できなくなり、友達との会話が減った。おしゃべりが好きだったが、友達に自分から話しかけることはほぼなくなった。
V. 死の恐怖
その後は症状が少しよくなったりまた重くなったりの繰り返しだった。精神疾患といっても身体に出る症状もきつく、それは不思議とどんどん移り変わっていくのだ。動悸が治ったと思えば食後にめまいで動けなくなったり、何週間も微熱が続いたり、運動していないのに経験したことのないくらいの筋肉痛がきたり、それが治れば手足に力が入らず歩けなくなり、胃のむかつき、舌のしびれ、喉の異物感、顔の筋肉のけいれんなど、信じられないくらいたくさんの症状を体験した。本当に怖かった。朝起きたらまず、今日も無事に生きて過ごせるかなと考える。ただふつうに1日を生きるのに必死だった。いつも隣に死がある感覚。安全装置のないジェットコースターに乗って山の1番高いところにいるような気分。
ある時、この恐怖感は前にも経験していることに気が付いた。余震のなか、真っ黑な津波を見ていたあのときだ。とっても大きな自然の力。外からの力で自分の生命がどうにかされてしまいそうなあの感覚。そしてまた、避難生活中の明日をも知れぬあの気持ちにも似ている。まさか今になってフラッシュバックしてくるとは、なんて厄介なのだろう。
病院もいろいろ行ったがどの検査も異常はないので、自分は身体的には健康だということは分かっていた。本当に病気で苦しんでいる人がいるのに何でどこも悪くない私がこんなになっているんだ、自分は弱いんだ、と思いつらかった。親にも相談したが「気持ちが弱いんじゃないの」と言われショックだった。
VI. COVID-19
生活するのもやっとだったので休養をとるために休学しようか悩んでいた矢先、新型コロナウイルスの世界的流行がはじまった。大学がオンライン授業になったことで時間に余裕ができ、治療に専念することにした。好きなものをたくさん買ったり、新しい趣味を探して没頭したりと自分なりにやってみた。また、飛行機が怖くて乗れない臆病な自分、いつも突然死を心配している変な自分、前は明るかったのにそうでなくなってしまった自分を受け入れて好きになろうと努力した。それに、震災を突然思い出して苦しくなるのは生き残った者の宿命なのだと思うことにした。震災から目を背け、忘れようとしていた私に天国の人たちが怒ったのかもしれない、と。
それらのどれが良かったのか、時間が解決してくれたのかはわからないが、徐々に過呼吸を起こすことがなくなり不安感も消えていった。発症から約1年、久しぶりに「楽しい」という感覚を取り戻した。それから現在まで再発することなく、幸せに毎日を送っている。
VII. 我が道
これは本当に不思議な体験だった。精神からあんなにたくさんの身体症状が出るなんて、未だに信じられない。今は元気だから言えることだが、医学生としてすごくいい経験だったと思う。症状が変わるたびに不安で仕方なくてたくさん教科書を読んだから勉強になったし、将来私のような患者さんに出会うことがあったらきっとサポートできると思う。
また、病気を通して震災と自分の人生とに改めて向き合うことができた。10年前私が医師になろうと思ったのは、生きていてもいい理由を持ちたかったからである。今考えればちょっと極端な発想だ。なぜ自分は生き残ったのか。良い行いをしていないとまた見えない大きな力に何かされるのではないか。そうやって許しを乞うようにがむしゃらに勉強してきたけれど、それは本当に自分の意思だったのか?と疑問に思うようになってきた。囚われすぎていたのではないか。震災がなかったら私は何をしていたかな。
震災にはたくさんの大切なものを奪われ、与えられた。幼い私に目標をくれたのもそれで、おかげで今があるとも言える。けれどそろそろ、震災のしがらみから解き放たれたいのだ。生き残った使命とか、地元のためとかに縛られず、好きなものへ向かって世界にだって羽ばたくこともできる。もう私は自由になっていいはずだ。そう気付くのに10年もかかってしまった。
VIII. 〜夢〜10年後の自分
震災に囚われなくていいとなると、地元に戻る道しか考えていなかった私に夢が広がった。もちろん今も故郷で地域医療をしたいという思いはあるが、留学もしてみたいし精神医学の研究も楽しそうだ。ちょうど病棟実習も始まり、たくさんのことに興味が湧いている。
また「病は気から」という言葉の重さを身を持って体験したのでそれを活かしたい。どの方向に進んでも、疾患だけでなく患者さん本人と向き合い、常に心理的背景を考えることのできる医師になりたい。
もうひとつの夢は、家族を持つことだ。私が病気の時に支えてくれたのはお付き合いしていた彼だった。過呼吸の時は落ち着かせてくれ、手足に力が入らなかった時は車椅子を押して病院に連れていってくれたりご飯を作ってくれたりした。真夜中に体調が悪くなった時は夜間診療所まで運転してくれた。たくさん迷惑をかけたのに嫌な顔ひとつしなかった彼には感謝しきれない。だから私も、(その彼と今後も続くかは知らないが)将来大切な人と家族を作って支え合いたい。守るものを持って強くなりたい。
そうして興味のある仕事をしながら家庭と両立したい。人に語るには小さな夢かもしれない。それでも私は、あたりまえの日常を大切な人と笑い合いながら過ごすことが一番の幸せだと確信している。
今年の3月11日で震災から10年。その日が来たら、犠牲になった人々を弔うのはもちろん、これまで震災を背負い続けてきた自分に別れを告げようと思う。新しい夢を叶えるために。