米国財団法人野口医学研究所

野口エッセイコンテスト 入賞作品
〜夢〜 10年後、あなたが成し遂げていること

野口エッセイコンテスト
入賞作品
〜夢〜 10年後、あなたが成し遂げていること

凍った世界にイノベーションを

大島鴻太

慶應義塾大学 医学部 医学科 4年

 小さな田舎町で生まれ育った。町内の一体感、雄大な自然に囲まれ、のびのびと育った。豊かな想像力をもって未来を語る、そんな雰囲気があるように信じていた。
 ところが、中学、高校と進むにつれて、なんとも形容しがたい閉塞感が自分を締め付けるようになった。周りに合わせて地元の学校に進学し、特にやりたいこともなく地元で就職することを普通とする風潮。大学へ進学する人すら多くはなかった。ここにいても自分のやりたいことはできない。誰かが既に生きたような人生の追体験をするだけである。将来の天井を見定める友人たちや周りの大人たちに、正直辟易していた。
 私には夢があった。それは、外科医になること。どんな難病でも、自らの手で治す。そんな姿に憧れた。地元の空気感が凍るように感じるようになっても、皆が現実を見始めるようになっても、私は小学3年生の頃から抱き続けた夢を持ち続けた。小学校の図書館で読んだ野口英世の伝記に記された彼のたくましい生き様は、いつまでも私に大きな夢を見させてくれた。中学生の頃には、大きく慕っていた人を亡くした。臨床現場で人を救うことへのこだわりは一層強くなった。
 その目標があったからこそ、私は誰よりも頑張れる自信があった。そして、その自分の志向は、地元の冷たい空気に凍らされてしまいそうな恐怖感があった。周りの凍った雰囲気に夢を潰されないためには、自分自身を熱く教育し続けるしかなかった。とにかく自ら貪欲に学んだ。高校生の頃には、物理学の全国コンテストで賞を取るまでになった。理工系への興味もあったものの、幼い頃から抱き続けた、医学の道に進みたいという気持ちの方が強かった。
 そして私は逃げるように上京し、慶應義塾大学医学部に入学した。慶應義塾大学医学部は、慶應義塾の創設者である福沢諭吉と親交の深かった北里柴三郎を初代学部⻑として迎え、発足した。そのような歴史と伝統ある医学部で、そして日本の中心都市・東京で、医学を学ぶことに私は大きな期待を抱いた。優秀な同期・先輩・後輩や先生方に囲まれ、交友の幅も高校生の頃までの比にならぬほど広がり、新たな世界での生活を楽しんでいた。
 解剖学・生理学といった基礎医学、そして臨床医学の種々の科目を学び、自分が医療人となることへの自覚が徐々に身体に染み付いていった。同時に、ひたすら暗記を繰り返す日々に対してある違和感を抱き始めてもいた。確かに良き臨床医となるためにはまず十分な知識を身につけなければならない。しかし、この厳しい勉強だけを突き詰めた先に見える自分の姿を想像すると、医療における小さな⻭車になるだけではないかという恐怖があった。すでに完成しているテンプレートを、追体験するだけではないかという失望があった。それは、中高生の頃に地元で感じたものとは違う意味で、しかし同じような冷たさで、自分の可能性を「凍らせる」ような感覚だった。臨床医として目の前の患者さんを治療することを否定しているのではない。臨床現場を支える医師は必要であり、尊いことだと考えている。ただ、医学・医療を時系列的に見ると、医療を支えるのみならず、より新しく・洗練されたものへと進歩させてきた人々がいるからこそ、今の医療が存在しているのだと気づく。その現代の医療にも多くの限界がある。慶應義塾の創設者である福沢諭吉は、「医師道うを休めよ自然の臣なりと」との言葉を残した。医療における新たな⻭車を作り、あるいは⻭車の構成自体を改良する人材が必要である。まさに野口英世もその一人であった。自分にとっては、そのような仕事が魅力的に思えた。
 そんな矢先、私が出会ったのが基礎研究だった。大学のカリキュラムの一環で研究室に配属されることになり、発生過程における脳形成メカニズムを探索する、研究漬けの日々が始まった。それまでの医学部生活で経験した、医学知識の総体を少しずつ自分の中に取り込み、咀嚼していく「作業」とは打って変わって、その知識の総体をcreateしていく「営み」に、喜びを覚えた。小さいけれども、世界中で他に誰も知らないような発見もいくつかした。脳の発生過程を解明することは直接的に臨床に結びつくわけではない。しかし、その発生過程の異常は様々な精神神経疾患と関連していることが示唆されており、まだ原因がよくわかっていないそれらの疾患に対して新たな光を当てることができると期待し、現在も研究を継続している。そして自分の医師のキャリアとしても、未来の医療をつくる基礎研究に、自分なりの貢献をしたいと考えるようになった。もちろん、外科医になるという小さな頃からの夢も持ち続けていた。自らの手で目の前の患者を治す。自らの手で新たな医療を開拓する。自分の目指す医師像は、基礎研究との出会いという経験を経て、自然とphysician-scientistとなった。研究者としての資質を備えた臨床医、それは奇しくも、慶應義塾大学初代医学部⻑・北里柴三郎の目指した「基礎・臨床一体型医学・医療の実現」を体現するものである。
 10年後、どのようなphysician-scientistになるか。様々な可能性を模索しながら、私は慶應医学部の有志が企画するキャリア教育プロジェクト「明日の教室」に参加した。ユニークなキャリアを歩む医学部出身の先生方を講師として招待し、医学部生との交流企画を催した。海外で医師として働く先生、教育に力を入れる先生、起業された先生など、多くのキャリアパスを目の当たりにする中で、医師としての広い可能性に改めて気づいた。医学部を出て、いわゆるレールに乗って臨床医として生きていく、そのようなキャリアが”普通”であるという医学部の「凍った」空気に固められてはいけない。そのような思いが強くなった。
 広い可能性を探索する中で、大事なことは目の前にあることにも気づかされた。大学3年生の頃、陸上競技をやっていた私は原因不明の⻑引くふくらはぎの怪我に悩まされていた。患者の立場として、知人の紹介によってある先生に診てもらうことになった。その先生は、私にとってその怪我が競技人生や生活においてどのような影響をもたらしているのか、経過を丁寧に問診しながら私の解釈や感情にも配慮しつつ、治療への本気の姿勢を見せてくださった。命に関わるような大病ではないものの、私の競技人生において重要だったその怪我を、その先生は私に寄り添って考えてくださった。私が10年後に成し遂げたいことを理解するためには、このエッセイに書かれている私の人生の経緯を始めから読んだほうが良いように、真に患者を理解するためには、患者視点の経過に傾聴する必要がある。患者としてのこの経験から、患者の主観的な体験に寄り添い、全人的に理解するような医師になりたいと身を以て感じた。
 新たな医療を切り拓く研究者へ。同時に、目の前の患者さんの人生に寄り添える臨床医へ。それが私のキャリアにおけるテーマになりつつある。ただ、それらはあくまで私の将来像の根幹をなす部分であって、自分の医師としての個性を発揮するには、さらに独自の枝葉をつけていかねばならないと考えていた。そんな中、COVID-19のpandemicが世界を襲った。誰も経験したことのない状況に、世界は混乱に陥った。日々新たな知見が見出されるが、依然として不明な部分も多いSARS-CoV-2に関して真偽不明の情報が拡散し、人々はパニックに陥った。このpandemicは、医師としての役割について考える機会を私に与えた。
 考えたことの一つは、情報の扱い方である。感染症は、医療側の対応だけでなく、市⺠の協力が感染制御に重要な役割を果たす中で、情報が錯綜し、人々は精神的・経済的不安に陥れられた。医療と市⺠を情報面で橋渡しする医療者が必要であると感じていた。確かに、テレビ番組やSNSを通じて情報を発信する医師はいたが、人々の新感染症への理解・行動変容への貢献にはまだ改善の余地がある。実際、COVID-19についてまだ医学的にも政策的にも未知な部分が多かった、2020年の春頃に私の知人に尋ねてみても、その時点で判明しているエビデンスについて正確な情報を収集している者は少なかった。特にSNSを主な情報源とする若年層において、断片的かつ真偽不明な情報だけが一人歩きし、医学的情報を扱うリテラシーを備えていない状態で、行動を各人の判断に委ねられるという構図が間違いなく存在した。況してや、主体的に得体の知れない感染症の知識を収集しようとすらしない人々に対して、正しい理解を求めることは尚更困難であった。
 思い返せば、医療と市⺠のギャップはこのpandemicに限らない。どれだけエビデンスがあっても喫煙者は存在するし、生活習慣病は減らない。ここに臨床医学の限界がある。医師はエビデンスに基づいて自分の専門分野の治療を行うことに注力しがちだ。これは私に言わせれば医師の世界の空気も「凍っている」ということになる。その空気に、医師の可能性を凍らされてはいけない。ここで重要となるのが公衆衛生学的アプローチである。
 ビル・ゲイツは、「人類を最大の危機にもたらすのは、核兵器ではなく、感染症のpandemicだ」と2015年に述べている。COVID-19が収束してもなお、将来新たな感染症の世界的流行が起こる可能性はあるだろう。今回の世界的流行・混乱を教訓として、新たな公衆衛生学的アプローチができないだろうか。
 特にこの情報化社会において、情報の拡散力は過去に例を見ないほど凄まじい。確かに間違った情報が広がるリスクはあるが、うまく使えば、これまでにない公衆衛生学的アプローチが可能になると考える。10年後までに、その基盤を作りたい。医学知識を持った者として、市⺠の疑問に対して適切に答え、正しい情報を届けるプラットフォームを設立する。このタゲットは感染症に限らない。生活習慣、健康食品など、健康に関わる様々な情報を正しく届け、行動変容を促すような仕組みを作りたい。
 そのようなことを考えながら、病院実習生として臨床の現場に出るようになった。そこで出会ったのは、栄養指導が必要な糖尿病の患者さんだ。患者さんが正しい知識を身につけ、生活に反映させることの重要性と難しさを感じた。同時に病院実習では、知識や技能もまだ不十分なstudent doctorである自分が、現場での学びを経て成⻑していくのも感じていた。ただ、一人前になって自信を持って診療できるようになるまでの難しさ、もどかしさが心に引っかかっていた。特に手術であれば、その先生からしか学べない、といったことも多い。技術を持った先生が引退してしまうと、その継承が難しくなる場合もある。
 生活習慣病の患者さんと、医師の卵としてまだ未熟な自分。それらは一見なんの関係もないように思えるが、「教育」が必要という点は共通している。先に述べた、市⺠への医療情報提供のあり方についても、実は「教育」の一部と捉えることができる。自分が独自の活動として将来取り組んでみたいこととして、最も興味のあるものに気づいた気がした。
 思えば、小さい頃に感じた、閉塞的で冷たい地元の空気感から抜け出すためにしたことは、ひたすら自らを「教育」し続けることだった。医学部に入って感じた違和感は機械的暗記に終始する「教育」であり、そこから救われたのは研究室配属という「教育」だった。既存の枠組み・価値観に囚われ、可能性を排除する「凍った」思考を突破するための手段として、教育は自分にとって大きな存在であったのだ。
 10年後までにどのように教育分野に貢献するか。二つの視点を考えている。
 一つは、人々の行動変容を促すツールの開発だ。感染症、生活習慣病をはじめとして、人々に正しい知識を提供し、行動を変えることが求められている。特に、COVID-19のように、今後10年で新たな新興感染症が生じる可能性は否定できない。生活習慣病も先進国をはじめとして大きな問題となっている。
 まず、正しい知識を提供するにはどうすれば良いか。もちろん、学校教育での知識提供充実は必須だろう。それに加えて、SNSや広告の利用が有効だと考えている。具体的には、医師単独で情報発信するのでなく、各分野の専門家を集めたチームを構成し、SNSや動画配信サービスを通じて最新の医療情報を提供・解説する。ただ、SNSでは健康に興味のない集団に対してはアプローチしにくいという問題がある。そこで、広告を利用する。インターネットやSNSなどの広告に、専門家集団による公式の知識提供を掲載する。
 次に、どのように行動変容を引き起こすかが鍵となる。行動変容を起こす上で重要な要素は、social incentive、immediate reward、progress monitoringだと言われている。人は、周囲の人々が行なっていることを自らも行おうとし(social incentive)、行動に対する即時的な報酬を求め(immediate reward)、進歩を実感したがる(progress monitoring)という性質がある。これらを取り入れるには、アプリケーションを開発することが考えられる。例えば、個々人の運動量などを記録し、自治体や学校、職場などの集団内で可視化、さらに日々の運動量の蓄積を可視化するとともに、一日の運動量に応じて、翌日には何らかのポイントを付与する。運動量の指標として歩数はスマートフォンを用いて簡便に測定可能だが、他の指標についても記録を促し、あるいは測定できる指標を探索する。将来的には、生体情報をウェアラブルデバイスや表情などから人工知能を用いて読み取り、利用することも考えられる。行動科学・精神医学研究、デバイス開発、人工知能研究などを統合し、さらにはビジネスとして成⻑させるビジョンを描いている。ここに奇遇にも、高校時代に興味を持った理工系との接点が生まれた。Physician-scientistとしての素養とコネクションを生かして、臨床、研究それぞれの視点からアイデアを生み出せるような研究チーム・事業を発足し、画期的な生体データの収集・行動変容ツールを開発したい。
 もう一つの教育分野で成し遂げたいことは、医学教育の改革だ。医学部学生時代から、臨床現場に直結する学びができる環境へ。また、scientistとしての素養を身につける研究教育の充実、イノベーションを起こすためのアントレプレナーシップ教育の充実、海外大学との交流促進など、目指すものは多い。そして医師になってからは、効率よく医師として成⻑できる学習システム、技術を多くの人へ伝承する手法が必要であろう。これらに対するアプロチとして、医工連携が有効だと考える。3D技術を駆使した解剖のdistance learning、VR(virtual reality)技術の発展による手術の再現や練習、医学生向けに、研究教育やアントレプレナーシップ教育を提供するサービス、実在の症例を基にした仮想症例データベースから実臨床に即した勉強ができるサービスなどを手がける、次世代の教育事業を立ち上げたい。大学と連携しながらビジネスとしても成⻑させ、現場のニーズを鑑みながらより大きな事業へと拡大させたい。
 患者に寄り添い全人的に理解する臨床医、かつ医学における新たな知見を得る研究者であるphysician-scientistを土台として、教育分野でのイノベーションを起こす。それが、私の10年後の夢だ。
 小さい頃に最初に描いた、外科医になって現場でひたすら汗を流すという夢は、今までの10年間でここまで広く、深く描写されるまでになった。次の10年間で、その実現に向かって、汗を流して走り続ける。