米国財団法人野口医学研究所

野口エッセイコンテスト 入賞作品
〜夢〜 10年後、あなたが成し遂げていること

野口エッセイコンテスト
入賞作品
〜夢〜 10年後、あなたが成し遂げていること

「ぬちぐすい」となる街へ

松本一希

京都大学 医学部 医学科 6年

 2020年、アフリカに2か月間滞在していた僕が帰国すると、瞬く間に新型コロナウイルスが世界を侵食し、これまでの生活様式は一変しました。緊急事態宣言が発令され、病院実習は全て中止、多くの飲食店が経営不振に陥る中、亡き祖父が創業したコーヒー店も打撃を受けました。
 行きたいところに行けない日々は、自分の夢を考える良い機会を与えてくれました。目の前の人を全員助けたい、という思いを抱いていた僕は、医師として目の前の人を健康にするにはどうすれば良いのか考えました。
 僕はもともと、発展途上国や国際機関など活躍の場が豊富な感染症医に憧れていました。今回の新型コロナでも感染症医が注目され、追い風を感じました。
 しかし、この感染症の流行で浮き彫りになったのは、コロナの毒性自体よりもむしろ日本社会の「格差」問題。夜の街や飲食店で生計を立てている方々がより大きな経済的打撃を受け、時に差別の対象となり、生活に困窮し健康を害してしまうこの社会構造に、最も大きな問題意識を持ちました。
 生まれた国や地域、家庭の経済力によってその人の寿命が決まってしまう。こうした貧困や生活環境など社会階層間・地域間の格差によって「健康格差」が生まれています。健康は遺伝子や生活習慣などの生物学的要因だけで決まる、と多くの人が信じていますが、「個人の社会要因」や、「環境としての社会要因」にも左右されるのです。
 思い返してみると、この「健康の社会的決定要因」を実感することはこれまでに何度もありました。毎日のようにアルバイトをし、貯めたお金で発展途上国を訪れていた時のことです。2020年初めに訪れたエチオピアでは、砂漠に大雨が降ったことによりバッタが大量発生していました。空を埋め尽くし、町を襲来しては畑の作物を全て食い荒らしていくサバクトビバッタに為す術もなく…。人々が求めていたのは、医療ではなく食べ物でした。このような十分に食糧が確保できない状況で、食生活や生活習慣に気を配れるはずがありません。「気候変動」という因子が、人々の健康を脅かしていました。
 イスラム教が信仰されている中東のサウジアラビアでは、女性の43%が肥満となっており、これは日本の約13倍にあたります。なぜなら、女性は外では肌を隠さなければならず、自ずと外出頻度が減少し、加えて運動ができないからです。現地を訪れると、夜出歩く人はほとんど男性のみで、女性は運動できないどころか、運動してはいけないとされていました。ここでは、「宗教」という因子によって健康が害されていました。
 日本国内に目を向けてみると、同様に男性の2人に1人が肥満を患う、並外れた地域がありました。
 基地が街と共存する沖縄県では、アメリカの食文化が市民に浸透し、本土よりも10年以上早くジャンクフードが流入してきたがために、高度な急性期病院と十分な数の医師が存在しているのにも関わらず、肥満を始めとする生活習慣病・心疾患・脳血管疾患・がんの死亡率、アルコール性肝疾患罹患者数といった健康面の数値が全国最下位となっています。
 沖縄には足繁く通い、多くの方にお話を伺いました。社会背景を調査していく中で衝撃的だったのは、子どもの貧困率が30%とかなり高く、数多くの子どもが十分に栄養を摂れていない現実。さらに、車社会、飲酒励行社会、欧米風の食事、輸送費による高価な野菜・魚介類、低賃金、全国最下位の学力・大学進学率、全国最多の離婚率・家庭内暴力発生率など、健康格差を生む様々な社会環境因子が複雑に絡み合って存在していることがわかりました。
 僕は、途上国で見たのと同じものを沖縄に感じました。自分の体を大切にしない人、大切にする余裕がない人。病院に来たときにはもう手遅れになっている人。住んでいるだけで病気になりやすい環境。格差に蓋をしてしまう独特の閉鎖的な社会。多くの人がそれを当たり前だと思っていて、医療従事者ですら日々の業務に忙殺され、その問題に取り組む余裕がない。僕がやらなければ。そう思いました。
 この健康格差問題を解決するには、地方自治体、学校、職場、建造環境、ソーシャルキャピタルなど様々な介入ポイントがあります。
 僕はその中でも、歩きやすいまちづくり、公共交通機関の整備、緑化、食料品店の立地といった観点からアプローチする「建造環境」に注目しています。この建造環境に注目しているのは、病院だけでは解決できない課題を解決する可能性を秘めているからです。
 例えば、医師が患者さんに、「健康のために歩きましょう」と伝えたとします。そこでもし、地域に歩道がしっかり整備されていなかったとしたら、残念ながら実行は難しいでしょう。同様に、定年後、外に出ることなく孤立して健康を害している高齢者の方に、「外出して、つながりを作りましょう」とアドバイスしても、行きたくなるような場所が地域になければそのアドバイスは響きません。
 しかし、日差しが強い地域でも快適で安全に利用できる歩道を整備したり、遊ぶ場所がない若者のために集まりたくなるような場所を作り、そこに自然と健康になるしかけを散りばめたり、子どもや高齢者、外国人など多世代が交流できる空間を設計したりできたら…。町の施設や構造物が、健康になるための処方箋となりうるのです。
 僕は、沖縄においては特に、この建造環境へのアプローチが有効だと考えています。
 というのは、沖縄は日本で唯一人口増加している地域で、観光客の増加が見込まれ、現在進行形で開発が進んでいる上に、今後複数の基地の返還が予定されていて、新たな街がまさにこれから作られようとしているからです。これまでの沖縄の都市開発は、目先の利益だけを追求して進められてきました。実際に基地返還地や埋め立て地にできたのは、パチンコ店、ラブホテル、ショッピングモール。「人の豊かな暮らし」を軽視した、雑然とした街でした。この都市計画に健康面から関わることができれば、誰一人残さず地域住民全員の健康に貢献できます。しかしながら、建造環境に目を向ける医療関係者は数少なく、国の省庁間でも、医学と都市計画学の連携は現状ほとんど進んでおりません。そこで、医師として僕自身が両分野の架け橋となり、新たなまちづくりのモデルを作りたいと考えました。
 これらを実践するために、まず沖縄北部で課題に取り組みたいと考えています。沖縄には鉄道が通っておらず、県内でも南北間で教育や情報、医療の格差が存在しているからです。地域の中核病院で総合診療医として働きながら、市町村や商店街、企業、住民と協力して、住んでいるだけで健康になるまちづくりに関わっていきたいです。そして後々は、県内の公共交通機関の整備や、基地返還地の都市計画にも参画したいと思っています。
 このエッセイのタイトルである「ぬちぐすい」とは、沖縄の言葉で「命の薬」という意味です。病院や薬局で処方してもらう薬ではなく、心や体を元気にさせてくれる食べ物や体験、心の癒しのことを指します。僕は、居心地が良く、住んでいるだけで幸せを感じられ、心も体も健康になる、そんな「ぬちぐすい」となる街を作りたいと思っています。そのために、「建造環境と健康」や「都市デザイン」といった分野を学びたく、キャリアの途中で一度臨床から離れ、大学院への進学を計画しています。研究が進んでいる海外の大学院への留学を実現させたいため、この度本コンテストに応募させていただきました。
 高齢化が進み、生活習慣病が問題となる現代において、この社会的要因による健康格差問題は、沖縄だけでなく、日本全体、そして将来世界中の大きな課題となります。
 沖縄は、かつては世界に名を馳せる長寿地域でした。その大きな要因となった人々の強いつながりはまだ根強く残っています。このポテンシャルに富んだ沖縄で、世界に貢献できる先進モデルを作るのが僕の夢です。