米国財団法人野口医学研究所

野口エッセイコンテスト 入賞作品
〜夢〜 10年後、あなたが成し遂げていること

野口エッセイコンテスト
入賞作品
〜夢〜 10年後、あなたが成し遂げていること

地域に根差し、心に寄り添える医師に

服部愛咲

自治医科大学 医学部 医学科 1年

 これは医師になって4年目、30歳になった私の日常である。
 2030年、7月某日。
 眩しい朝日と蝉の声で目が覚める。朝日に向かって思い切り伸びをして、朝の支度を始める。ご飯を炊いている間に患者さんからもらったトマトにがぶりつく。慌ただしい朝は学生の頃と変わらない。髪を1つに結って、気合を入れる。診療所は朝からにぎわっている。病気の人もいれば、畑仕事の後、一服していく人もいる。一種の憩いの場となっているのだろう。そんな患者さんの様子を見ていると毎回温かな気持ちになり、いつも自分の祖父母のことを思い出す。
 卒後4年目。大学病院での初期研修を終えて、この診療所に派遣されて2年目になる。最初の頃は仕事を覚えることに必死だったが、ようやくこの地の生活にも慣れてきた。今日も朝から診療が始まる。この町に診療所はここだけだ。小児科志望だったものの、ここでは生まれたばかりの赤ちゃんから100歳の高齢者までこの街に住む人全員を担当し、風邪や慢性疾患、メンタルヘルスから外科まで幅広い症例を診ている。その土地の地理的な特性や住民の健康状態、家族関係、交通手段などを知ることは勿論、その地域に伝わる風習や言い伝え、また住民それぞれの価値観、信条も日々の対話を通して引き出すようにしている。病気の治療にはその人の考え方や心の状態が密接に関係してくるからだ。この診療所には数年ごとに違う医師が派遣される。私も先輩方が築いた基盤をもとに、私がその時の地域の状況や患者のニーズに合わせて柔軟に対応し、その地域にあった医療を継続して行くように心がけている。
 今日の午後は訪問診療へ向かう。この町には自動車を運転できないお年寄りがたくさん住んでいる。私が担当しているのは、がんの宣告を受けて最期を住み慣れた土地で過ごしたいと望むおじいちゃんと、認知症が進み介護が必要なおばあちゃんの2人。それと、最近診療所に来ることが負担だと話すおばあちゃんも、訪問診療へ移行しようと話し合っているところだ。私がこの地で実践しているのは在宅医療の普及と月に1回、この地で働く様々な職種間の会議の主催。それと最近、住民に向けての健康教室も始めた。今計画しているのは、ショートステイができる施設の建設。どんなサービスがあったらよいか、診療の度に住民に聞いている。私がなぜこのように高齢者向け医療の充実に努めようとしているのか。それには理由がある。
 私は高校3年の1年の間に、同居していた祖父母を3人亡くした。父方の祖父は認知症、母方の祖父は膵臓がん、祖母は認知症だった。たった1年の間に、膵臓がんの祖父を在宅で介護し、認知症の祖父母とともに生活し、最終的に3人とも家で看取った。あの頃の私は、介護の肉体的な辛さだけでなく、暴言を吐かれるなどの精神的苦痛も味わい、そして何より、元気だった祖父母の過去の姿と現在を照らし合わせ、どうしてこんなに変わってしまったのかと考えてしまいとても辛い思いをしていた。そんな経験もあってか、これらの高齢者やその家族を対象とした医療の充実にはより一層熱が入る。
 この経験から医師として心がけていることがある。それは患者さんとその家族の心に寄り添い、彼らの人生に想像を及ばせることである。医師が患者さんに初めて対面するのは、病気になってからの方が多いため、その患者さんが今までどういう人生を歩んできた人なのか、どういう信念や価値観を持った人なのか理解するのは容易ではない。私は、仮に目の前の患者が、認知症が進み人間性を失った状態でも、その人への敬意は忘れてはならないと肝に銘じている。なぜならその人にも今の状態からは想像できない素晴らしい過去や人格があったからだ。そして私が、祖父母がどんなに変わってしまっても祖父母のことが大好きなように、目の前の患者も誰かに愛され、また他の誰かにとってのかけがえのない人だからだ。家族は過去と現実の乖離という医療者の理解の難しい領域で苦しむ。残念ながら、医療者は家族の思いや苦しみを全て理解してあげることはできない。しかし患者の日々の様子を観察し、家族との対話を通して想像力を目一杯働かせることで、少しは家族の心に、そして患者の人生に寄り添えると思うのだ。このような寄り添う姿勢や想像力は、どの医師にも求められる能力だと感じているので、これらを意識した上で診療に臨むよう心掛けている。
 また在宅医療の普及は、住み慣れた地域で家族とともに生活を続けられ、そのまま家で最期を迎えたいと希望する人が多いことから始めた。私の祖父もその1人だった。祖父が「医師や看護師さんが来てくれると気分が和らぐ」と笑顔で言っていたのが心に浮かび、それがいつも私を奮い立たせてくれる。訪問診療では家族の何気ない日常を垣間見られたり、目に入ったものをきっかけに会話が弾んだりするところが診療所にはない喜びだ。私の祖父も自作の木彫りの山雀や百舌鳥を褒められた時はとても嬉しそうにしていた。訪問診療では患者に負担を掛けず普段の生活や趣味を継続できる、日常に溶け込む医療を目指している。また日々の対話を大切に本音で話し合える関係を構築することによって、死をどのように迎えたいか、それまでにしておきたいことは何か入念に対話を重ね、希望に寄り添えるように努力している。何より患者が家で死を迎えるということは家族にとっても意味があるだろう。死は多くを語る。患者の家族にとって、今まで元気だった人が日に日に衰え死に向かっていく姿は見ていて辛いものがあるが、残された人は死を知ることで生を見つめ直すきっかけになり、より良く人生を歩んでいくことができる。私自身、最後の最後まで多くを教えてくれた祖父母には本当に感謝している。
 その一方で在宅医療を行う家庭では、家族はどうしても介護中心の生活を強いられる。ここで考えないといけないことは家族にもそれぞれの人生があるということである。一昔前よりもずっと、保険、福祉制度は充実している。また社会の理解も進み、介護が必要な人がいることを隠さずに生活できる世の中になった。私の家庭もこれらの制度や周りの理解に何度も助けられた。しかし実際に介護が始まると、自分だけの落ち着いた時間を過ごすことはほとんどできない。介護を24時間、しかもそれを1人で行っている人が世の中には大勢存在する。高齢化が進む日本ではますますこの割合は増えていくことだろう。そこで私たち医師や看護師、薬剤師、介護士、ケアマネジャーなど多様な職種が連携して、家族が共倒れにならないように、また家族が介護によって離職を迫られることのないように皆で支えていく必要がある。そこで医師になった私は職種間の会議を定期的に開くことに決めた。これは同じ大学の先輩医師の多くが実践しているため、私も探り探り始めてみたところである。この会議では医師や看護師、介護士などの医療従事者に加え、警察官や学校の先生、役所の人が集まって皆で地域の問題点を話し合うものである。これによってケアが必要な人への理解が深まり、地域全体でその人を見守って行こうという意識を共通に持つことができる。また私自身も自分の専門外の領域への見識を深められ、住民にとってより良い医療を提供することができ、地域の活性化につなげることができる。他にも行政と掛け合って、24時間対応できる訪問看護やショートステイができる施設の建設を計画している。これによって家族の負担を軽減できるだけでなく、入浴など家族だけではなかなか難しい日常動作も行うことができ、双方にメリットがあると考えている。患者の病気ではなく、人そのものを診て、その人が歩んできた人生に敬意を払い、家族の人生を見据えた医療を提供していきたい。あの経験があったからこそ、少しは患者家族の視点を持つことができ、それに寄り添った医療を提供できていると信じている。このように患者とその家族がどうしたら幸せに生きて行けるかを常に考え、住民に助けてもらいながら、自分の思い描いてきた医療の実現に励んでいる。
 1日の診療を終え、帰宅する。最新の医療に遅れないようにするために論文に目を通すことを日課としている。地域医療に携わりながらも、常に国際的な視点を持つことは学生時代、教授から口を酸っぱくして言われてきた。さらに最近は少しずつNPOの施設の運営についても勉強するようにしている。
 私には幼い頃から思い描いてきた夢がもう1つある。それは子どもの貧困問題や虐待の早期発見に取り組むこと、そしてNPO法人を設立して、子どもシェルターを運営することだ。
 これは卒後4年目でも計画段階ではあるが、実現に向けて勉強しているところである。
 貧困も虐待も顕在化しにくいため、踏み込んだ支援が難しい領域である。そのためどちらも「いち早く気づくこと」が最も重要であると考える。まず医師としてできることは受診の敷居を下げることである。膝を突き合わせて話し合わなければ、抱えている問題に気づくことができない。まずは受診をきっかけとして少しずつ信頼関係を築いて行くことで、抱える問題や悩みを話してもらい、適切な支援へとつなげて行きたい。他にも経済状況に関わらず医療を提供することや子どもが必要な時にいつでも病院に受診できるような体制を整えることが必要だと考える。現時点では、市町村によって子どもの医療費負担が異なる。経済状況や住んでいる地域に関わらず、皆が平等に受診できるよう、私は行政に掛け合って、高校生までの子どもの窓口負担をゼロにしたい。また虐待が行われている場合、それを隠そうとして病院に来てくれないことがある。その場合、ここでも多職種連携を強め、学校や行政と密に連携をとりあって、疑いのある子どもの早期発見、支援に努める。子どもにとって虐待の事実を話すことはとても勇気がいる。自分が言うことで虐待が酷くなることや家族が離れ離れになることを心配して言い出せず、1人で苦しんでしまうことも多い。しかし虐待がその子の人格形成に大きな影響を及ぼすのは事実である。子どもたちが真っ直ぐ成長できるように、まず早期発見、その後適切な治療や機関へとつなげることが大切である。また私がNPO法人を設立して子どもシェルターを運営し子どもを保護することで、支援が必要だと感じた子どもに食事や安心して眠れる場所を提供し、普段の生活に密着した形で見守って行きたい。いずれの場合も普段の診療の中で、いつでも相談にのることができると伝え、頼れる場所があることを広く知ってもらい、子どもやその保護者との関係を継続しつつ、病気の時は勿論、悩みを抱えた時に頼ってもらえる存在でありたい。
 またNPOの一環で、子どもたちの夢を応援するプロジェクトを行いたいと考えている。私は子どもたちに経済的な理由で進学を諦めないでほしいと考えている。生まれた環境でその子の夢が潰えてしまうのはとても悲しいことだと思う。私は祖父母が亡くなった時、医師になる夢を諦めないといけないのだなと思った。周囲の人からも一旦就職して、それでも医師になりたかったらもう1度勉強すればよいと言われた。でも諦めきれずに、浪人が決まった直後から自治医大の新生児集中治療室で清掃の仕事を始めた。そして必死に働きながら勉強を続け、たくさんの人の助けを借りて、医学部に入学することができた。私のように適切な支援や制度を受けることができれば、一般家庭の子どもよりは制限が多いかもしれないが、夢を実現することができる。まずは施設で学生ボランティアの力を借りつつ、学校の勉強についていけない子どもや学習意欲があるにも関わらず学習環境が整っていない子どもたちの学習支援を行いたい。また今回のコンテストのような形で学生支援ができることも知った。すでに実践している先人から方法を学び、同じ志を持った人を募って、実現に向けて準備を進めて行きたい。
 それぞれの思いに耳を傾け、心に寄り添い、患者さんが望む医療を提供すること。学生の頃からそんな医療を目標としてきた。あの頃思い描いていた未来に今の自分がどれだけ近づけているのだろうか。布団に入るとそんなことを考える。医師としても1人の住民としても充実した日々を送れていることの幸せを噛みしめて、眠りにつく。
 上記に綴ってきたことは今の医学部1年の私が理想としている10年後である。自分の過去の経験をもとに思い描いている未来を書き記してきたが、これらの実現にはたくさんの困難が待ち受けているだろう。思い通りにいかないことも、途中で投げ出したくなることもあるかもしれない。でもここに綴ったものは未来の私をきっと勇気づけ、奮い立たせてくれるはずだ。
 最後に、私が働いていた新生児集中治療室には、小さな体で一所懸命生きようとしている赤ちゃんや、生まれたばかりの我が子を抱きしめて涙するお母さんの姿があった。それを見る度に将来はこういう人たちの力になろうといつも心に誓ってきた。今の私の小さな夢は、数年後の臨床実習や医師になってから、ここで出会った赤ちゃんたちの成長した姿を見ることだ。赤ちゃんたちが一所懸命生きようとした1日の重さを心に留めて、ここに書いたこと全てを実現できるよう、6年間必死に勉強し、教養を深め、人間性を磨いて行く決意である。そして今まで私を育んでくれた社会に恩返しができるように、研鑽を積んでいきたい。