米国財団法人野口医学研究所

野口エッセイコンテスト 入賞作品
〜夢〜 10年後、あなたが成し遂げていること

野口エッセイコンテスト
入賞作品
〜夢〜 10年後、あなたが成し遂げていること

生きているということ

森陽愛子

筑波大学 医学群 医学類 5年

 私が10年後に成し遂げたい夢は3つある。ひとつは外科医になることだ。臨床医以外のキャリアも考えながら臨床実習が始まった私が、「外科医になりたい」と心から思った手術が2つある。
 1つめはロボットでの左上葉切除だ。この患者さんは私の受け持ちだったので、術前に色々な話を聞いていた。仕事、家族、若かった頃の写真、お気に入りの作家、好きな映画、私に似合う服の色まで(この方はファッション関係のお仕事をされていた)。Aさんと呼ぶことにする。術者がコンソールに座り、手術が始まった。「学生さん、ここ覗いていいよ」。ダヴィンチでは執刀医の隣にもう一つ席があり、術者と同じ三次元で術野を覗くことができる。見たことのない景色が広がっていた。まるで小人になって胸腔内に入ったようだった。肺尖部を見上げるような視界。葉間はきれいに分葉している。その葉間に胸膜に覆われた血管が見える。葉間胸膜を持つ、切る。上葉と下葉が離れていく。血管がさらによく見える。拍動している。表面はうっすら赤い。血管鞘だ。血管鞘を持ち、切開。レースのカーテンのような結合織を分け入ると、血管の表面が現れる。その白さに驚いた。眩しいくらいに白い。つやつやしている。輝いている。生まれたてのような白さ。だけど、御神木のような堂々とした姿。「これが肺動脈ね」先生が言った。これが肺動脈。なんて美しいのだろう。こんなの解剖実習のときに見ただろうか。思わずAさんに伝えたくなった。「Aさんの肺動脈、すごく綺麗です。私が今まで見たこの世のものの中で一番美しいです」と。
 この時のことは今でも鮮明に覚えている。なぜこんなに感動したのか、ある時考えた。たぶん、“生きている”肺動脈だったからだ。Aさんはお喋りが好きな方で、話は尽きず、月曜日に受け持ってから木曜日の手術まで毎日3時間くらいお話していた。病気に関係ない他愛もないことまで色々聞いていた。笑うポイントも、話す速さも、口癖も、私を何と呼ぶかも知っていた。年齢も生きてきた環境も、いまの立場も異なるけれど、手術に向けて運命を共にするチームのような気持ちだった。だから、私にとってはただの肺動脈ではなくて「Aさんの肺動脈」だった。Aさんの中に、こんなものがあったのかという驚き。この時から、呼吸器外科の手術で肺動脈に集中するようになり、肺動脈という臓器の美しさに魅了されていった。
 2つめは胸腔鏡補助下での前縦隔腫瘍の心膜・横隔神経合併切除。この手術は、たぶん何年たっても忘れない。第4肋間、第6肋間、第7肋間にポートを置き、手術が始まった。第4肋間の創は8cmの小開胸。カメラを入れて全体を観察。左上葉に浸潤している。腫瘍は、ちょうど肺と心膜に橋を架けるように存在した。その橋の下に血管テープを通し、ステープラ―の通り道を確保。心膜切開、心嚢液採取。心嚢内に浸潤や癒着がないことを確認。癒着している範囲の心膜を切離。横隔神経と心膜横隔動静脈を処理。浸潤している部分の肺を部分切除。検体摘出。手術は順調に進んだ。「学生さん、手入れてここ触ってごらん」先生が言った。初めて見る心膜切除だったけど、いま先生が示している部分が大動脈と肺動脈の起始部であることは分かった。大血管。大事な血管。恐る恐る手を入れた。「あたたかい!」私の口から出てきた言葉は、自分でも予想外のものだった。拍動を感じますとか、硬いとか柔らかいとか、そういう“触感”を想像していた。「当たり前です。そうじゃなかったら手術できません。」先生に言われて、気がついた。そうか、そういうことなのか。生きているとはこういうことなのだ。手術とは、生きているということなのだ。当たり前のことだけど、まだ分かっていなかった。学生実習で生きている臓器を触れることはあまりない。先生たちが触れるその様子で臓器の硬さや質感を想像し、なんとなく分かった気になっていた。でも、温度までは分からなかった。というより、考えたことがなかった。この手術で、私は生きているということがどういうことなのか、初めて自分の指で感じられた気がする。
 感動したり、当り前だと思っていたことが覆されたりと、心を揺さぶられた手術は他にもある。どの手術も忘れたくないので、ノートに書いている。見開きの左ページに術式・簡単な病歴・術前画像のスケッチ・手術記録、右ページに術野のスケッチと先生が仰ったこと、自分が思ったことや疑問をメモしている。数えてみたら64症例あった。最初は、感動した瞬間を忘れないよう手元に残しておきたいという気持ちで始めたノートだが、段々と絵を書くことで執刀しているような気持ちになり術式の理解も深まった。でも、執刀している先生方と今の私では、見えているものが違うと思う。物理的な視野(例えば開腹での骨盤内)、詳細な解剖の認識、経験と知識が生みだす見えていない部分の認識など。いつか自分が執刀する時に、どんな風に見えるのか、どんな感情を抱くのか、考えるとわくわくする。今ではこの手術ノートが、悩んだ時や挫けそうになった時の支えとなり、希望となっている。
 その中でも、特に前述の2つの手術が私を外科の世界に引き込んでくれた。だから、呼吸器外科医になりたい。しかし、まだ「呼吸器外科医になって、肺がんを治したい」とか「患者さんを助けたい」とまでは言えない。そこまでの自信が持てないのだ。例えば、がんは外科切除をして終わりではない。術後の再発がないかフォローするまでが、治療だし、術前後の化学療法や放射線療法もある。病院実習をしていて、がんが治ったという瞬間は見たことがないし、そんな瞬間はないのかもしれない。けれども、肺がんは日本人のがん死の中で最も多く、世界的にも全てのがんの中で新規患者数・死亡者数ともに最多だ。いつか、このような国際的な課題に向き合える医師になりたい。そのために、まずは安全な手術ができるよう鍛錬したい。10年後には「がんを治したい」と言える呼吸器外科医になりたい。
 二つめの夢は、オレンジ企業を世界に広めることだ。オレンジ企業というのは、私が考えた概念で、従業員と消費者の健康増進に取り組んでいる企業のことを言う。労働環境が優れた「ホワイト企業」や、環境問題に配慮している「グリーン企業」と並んで、健康(≒well-being)に取り組む「オレンジ企業」が広まってほしい。この概念を第5回住友理工学生小論文アワードで2019年に発表し最優秀賞を頂いた。
 この考えに至った背景には、医学部を目指したきっかけと、医学部に入ってからの活動が関係している。私は、小学生の頃、教室の壁に貼ってあった歴史の年表を見て『この長い歴史や、今の社会を支えているのは、ひとり一人の健康だ』と思い、将来は健康に携わる仕事がしたいと考え医師を志した。医学部に入ってからは、大学のサークルで市民を対象にした心肺蘇生講習や、小中学校でのがん教育、アルコールに関する授業、喫煙防止教育、睡眠習慣の授業、熱中症予防講座などを行ってきた。年間20回ほどの活動機会があり、年間1000人~1500人ほどと関わる中で、医療や健康に関する世間の認識を肌で感じた。活動内容を統計学的に分析して学会発表も行っている。このような活動をする中で、2つの疑問を持った。ヘルスプロモーションや健康教育は、平等なのだろうか。持続可能なのだろうか。
 これに対する私の答えが「オレンジ企業」だ。企業は、現代社会で市民生活と切っても切れない関係にある。誰もが、消費者または労働者として企業と日々接しているからだ。このアクセスの良さは、学校や医療・福祉・行政などの所謂「健康の担い手」と大きく異なるところだと思う。したがって、企業が提供する商品・サービスや労働環境が健康に良いものであれば、経済状況・国や地域・性別・年齢に関わらず、すべての人が健康を享受できると考えた。さらに、企業は自社の利益のために頭を使う。したがって、“健康に良い”ということが競争力となるような社会の仕組みを作れば、自然と「健康の維持・増進のために良好な社会」が出来上がる。そしてそれは、限界を決めることなく追求され続けるのではないだろうか。これこそ、私が理想とする「健康を意識せずとも、誰もが健康に生きられる社会」だ。
 以上のシミュレーションは、夢物語ではないと思う。1978年アルマアタ宣言においてWHOが提唱した「プライマリヘルスケア(PHC)」は、地域住民が主体となって自分たちの保健サービスを自主的に運営していく保健医療活動のことであり、途上国での例がイメージされがちだが、WHOは2008年に「PHC-Now more than ever-」というテーマでPHCの重要性を再度強調し、先進国を含めた現代社会で生じている新たな保健課題に対応すべく保健システムの変革が求められていると提言している。さらに、2015年に国連で採択されたSDGsでは2030年までに達成すべき17の目標の中に「すべての人に健康と福祉を」が掲げられている。SDGsは政府やNPOだけでなく、多くの企業が盛んに取り組みはじめている。ゆえに、「オレンジ企業」という名前は広まらずとも、オレンジ企業のような概念は2030年までにきっと世界に浸透しているだろう。
 私はオレンジ企業の可能性を探るため、ささやかではあるがいくつかのプロジェクトを開催している。2019年には、大学近くのカラオケボックスで「心肺蘇生選手権」なるものを開催した。大学の救急・集中治療部からお借りしたCPR(cardiac pulmonary resuscitation)練習用のシミュレーターを用いて、来店者に30秒間の胸骨圧迫をしてもらう。その間、他の客は胸骨圧迫のテンポ(1分間に100~120回)に合う曲を歌いながら、手拍子をする。シミュレーターが、テンポ・深さ・継続時間の3要素を加味して点数を出してくれる。点数の高かった上位3名に賞品を授与した。家でも心肺蘇生法を練習したり、周りの人に教えたりしてほしいという願いを込め、賞品は胸骨圧迫の練習ができそうな十分な厚みのあるシロクマのぬいぐるみだった。企画の趣旨としては、市民に身近なカラオケボックスという場で、気軽に心肺蘇生法に触れていれば地域のbystanderCPR率も向上するのではないかという狙いがあった。「実際に日常生活の中で救命処置が必要な場面に遭遇したら、人々はどんな反応をしてどこまで正確な処置ができるのだろうか」という私の中の疑問を検証する試みでもあった。結果としては、来店者の選手権出場率は100%だった。このように、このイベントは意外にも好評で定期開催が予定されていた。
 しかし、新型コロナ流行でカラオケボックスでの活動はできなくなってしまった。そんな時に、声をかけてくださったのが、つくば市を拠点に北関東に食品スーパーマーケットを展開するある企業だ。この企業はコロナ以前から、健康や食育、SDGsを重視していた。コロナ禍で客との直接のコミュニケーションが希薄になったことから、SNSでのライブ配信を始めており、その企画の1つとして2020年6月に新型コロナ流行下での市民による心肺蘇生法についてライブ配信をやらせて頂いた。ちょうどこの時期、アメリカ心臓協会(AHA)がCOVID-19感染の疑われる状況に対応したBLS/ACLSアルゴリズムを提示していた。そのアルゴリズムに準じ、従来よりも感染防御に配慮した内容を、初めて心肺蘇生法を学ぶ人も理解できるように演技などを工夫して配信した。内容については救急・集中治療部の医師にも監修していただいた。配信を見た方からは、「コロナだからと何もしないのではなく、できることもあるのだと知った」、「店でお客さんが倒れて救急車を呼ぶことがたまにあるので、よく覚えておこうと思った」などの感想が寄せられた。この取り組みは、地元紙や全国紙の茨城版でも取り上げられ、改めて伝えることの重要性や、企業と連携することで得られるインパクトの大きさを実感した。
 12月には、餅の窒息予防について同企業のSNSにてライブ配信を行った。企画のきっかけとしては、筑波大学の研究室から全国死亡統計を用いて「食物の誤嚥による窒息死が1月1日に多いこと」が発表されたことや、実習中にぶどうの誤嚥で重篤な状態になった小児の症例を聞いたこと、新型コロナ流行で救急車の受け入れ困難など医療崩壊が起き始めていることがあった。これらの問題に対し、自分にできることがないか考えた。救急医や総合診療医、病院栄養士や食品企業の栄養士、餅の会社、農家など色々な方から情報収集し、企画を作っていった。最終的な内容としては、窒息解除の応急処置と餅を食べる時の注意点を実演した。SNSのコメントでは「家族に高齢者がいるので情報共有して気を付けたい」「とても為になるので毎年放送してほしい」「今年のお雑煮は小さく切ったお餅にしようと思う」などの言葉を頂いた。時期的にも注目度が高く、店舗のモニターでも数週間放映された。一部地域での活動に過ぎないが、餅を詰まらせて苦しむ人や家族が少しでも減っていたら嬉しい。
 ライブ配信に関しては、それぞれ再生回数5千回を超えている。アプローチできる人数の多さに加え、カラオケボックスや食品スーパーの来店者といった、医療という面からだけでは接点を持てないような人々にもアプローチできたことが、企業と連携したことによる大きなメリットだと感じている。企業を通じた、消費者へのwell-beingの提供だ。情報提供だけでなく商品やサービスを通じて環境を変えたいとか、従業員へのアプローチもしたいとか、ゆくゆくは医療者主体ではなく企業主体にしたい、などとまだまだやりたいことは沢山ある。これからも、オレンジ企業の可能性を確かめるためにチャレンジしていきたい。
 近年、ファッション誌を見れば、「エコ」「エシカル消費」などの言葉が躍り、同世代のモデルやタレントがSDGs生活を謳っている。テレビ番組でもSDGs特集が組まれている。若い世代を中心にSDGsの概念が普及しているのを感じる。しかし、環境問題や人種差別、男女平等などの課題に比べ、健康に関する取り組みはあまり多くない印象だ。国民皆保険があり、医療・福祉へのアクセスが保障された日本社会では既に解決された課題なのだろうか。私はそうは思わない。高齢者の健康問題は青年期の要因が大きく影響しているし、中高年の健康課題に対しても今の医療福祉制度ではカバーできない部分があり、若者のヘルスリテラシーの低さにも一石を投じる必要があると感じる。医療・健康の分野でもより良い未来のためにイノベーションを起こしたい。2020年は、新型コロナの流行で企業のあり方も大きく変わった。緊急事態宣言で休業要請や時短営業が行われるなど、様々な企業が苦境に立たされた。しかし、見方を変えると、どんな状況でも人々が繋がりを持っているものが企業であることを実証しているようにも感じる。企業の行動が市民の行動に与える影響の大きさも実感する。10年後の2030年にはSDGsの17の目標が達成され、沢山の「オレンジ企業」が誕生していることを願う。
 長くなって恐縮だが、10年後に成し遂げたい一番の夢は、夢を与えられる人になることだ。今、私たち学生の生活は正直に言って、不安定である。新型コロナ流行でいつ病院実習が中止になるか分からない不安、海外研修もなくなり、オンライン授業は家で一人パソコンに向き合う孤独である。卒業してからも、コロナ流行下ではどのような研修になるのかわからない。昨年卒業された先輩のSNSでは「入職のオリエンテーションで『君たちも死ぬかもしれない』と言われた。母に伝えたら泣いていた」との投稿。ある医師は「来週からコロナ病棟」と投稿した数日後「ついに発熱。PCR陽性。」との投稿。私自身の実習も院内クラスター発生で中止になった。実習先の看護師が保育園登園を断られるなど、医療者差別も身近にある。データに基づいた冷静な判断を心がけるし、みんなが大変でその中で新しいやり方を見つけなければならないのは分かっているが、やはり不安だ。そんな気持ちも、普段は心の奥底に仕舞っていて自分でも気づかない。そうできているのは、夢があるからだと気がついた。
 その夢は、私一人で思い描いてきたのではなく、人とのかかわりの中で形作られたものだと気がついた。実習で出会った医師や患者さんから頂いた「外科医になりたい」という夢、サークルのメンバや私たちの講座に参加してくれる子供たち・地域住民、イベント開催に協力してくれる地元企業のお陰で着想に至り実行に移せている「オレンジ企業」という夢。他にも、色々な研修で出会った大人の背中を見て、世界が広がったし、自分が何をしたいのか突き詰めることができた。さらに、最近大変ありがたみを感じるのが、コロナ禍で始まった学生への経済支援や食糧支援だ。私はコロナ前から奨学金とアルバイト代で生活していて、余裕があるとは言えない生活だったが、それなりに暮らせていた。でも、コロナ禍で学生への支援が行われるようになり大変助かっている。2020年4月頃に大学などからの給付金があり、その後定期的に市民団体やNPO法人が食糧支援を行ってくれている。毎回、見ず知らずの学生のためにこんなにも沢山の食料を分けてくれる人がいるのかと感動する。大学近くの公園で開かれる支援会には、毎回多くの学生が並び、困っているのは自分だけではないのだという安心感にもなっている。困った時には、誰かが助けてくれるという一生忘れない経験になったと共に、いつか必ずこの御恩を返したいと強く感じた。今の私が、夢を持って生きていられるのは、夢を与えてくれた周りの人たちと夢を持ち続ける環境を支えてくれる人たちのお陰だ。いつか私も、誰かに夢を与え、夢を支えられる人になりたい。
 今後数年は、以前なら叶えられた希望や目標も叶えられないことは多いだろうし、希望が持ちづらい。でも、10年後ならまだ分からない。今の自分達の行動で変えられる気がするから、どんな未来も描けるし、考えると心が躍る。まだまだ夢は増えるかもしれないし、アップデートするかもしれないが、10年後の33歳の時にこのエッセイを自信を持って読み返せるよう、夢への道筋を歩んでいきたい。

審査員からのコメント

名前

北村 聖

公益社団法人 地域医療振興協会 地域医療研究所 シニアアドバイザー
東京大学 名誉教授
米国財団法人 野口医学研究所 理事
 受賞された森さんに会ってみたいと思う。会うというより、影のようになって彼女をフォローしてみたい。きっと子供のような疲れを知らない人だろう。外科医になる夢と、健康を志すオレンジ企業を広める夢と、そして、最後に人に夢を与えられる人になる夢が生き生きと語られてる。名前のように春の陽差しを浴びてスキップするようなエッセイである。コロナ禍で実習がなくなったと書いてあっても決して暗くならないのはなぜなのか?閉じ籠もるのではなく、飛び出すことしか考えていない森さんがそこにいるからだろう。最後に、64症例の外科手術ノート、素晴らしいです。医学生の鑑です。ぜひとも、続けてください。臨床研修のときも、専門研修のときも、そして生涯に渡って手術ノートを書き続けてください。特に、右ページは何よりも雄弁な自叙伝になると思います。