設立趣意
フィラデルフィアに「野口英世博士の精神」を
今から100年ほど前の1900年12月、野口英世はアメリカで医学を学ぶべく、フィラデルフィアに渡りました。
若き日の野口英世は無名で無一文でしたが、医学に情熱を燃やし、不眠不休の努力を重ね、やがて偉大な医学者と認められ、世界の医学の発展の為に数々の業績を遺しました。その出発点となったのが「ペンシルバニア大学」です。
「米国財団法人野口医学研究所」は、野口英世の功績を称え、その精神を継ぎ、第二・第三の“野口英世”を生み出す為、1983年にゆかりの地であるフィラデルフィアに設立されました。
そして現在では、日米を基軸とした医療従事者の留学システムを確立し、その留学の資金援助を行う等、国際医学交流の重要な役割を担っています。
アメリカ医学の導入で発展した戦後の日本医学
顧みれば近代医学が導入されて1世紀。日本の医学は著しい発展を遂げてきました。とりわけ戦後アメリカの医学からは大きな影響を受けています。また援助は並々ならぬものがあります。
フルブライトやガリオア奨学金を得て、アメリカへ留学した若い日本の医師たち。彼らは、優れたアメリカの基礎医学・臨床医学を研修する機会を得て、帰国後各地の医科大学の指導者となり、日本の医学の進歩に貢献してきました。今日の日本医学の発展の大部分は、アメリカの医学の導入によってもたらされたといっても過言ではないのです。
日米の医学交流が途絶える…
ところが、この十数年の間に事態は大きく変化しました。最近のアメリカの医学を導入することが大変難しくなってきたのです。これには大きく2つの原因があると思われます。
まず1つは、1950年~1960年代、アメリカはベトナム戦争の影響で医師不足の状況にあり、これを補うために外国人レジデントを積極的に受け入れていたのですが、終戦後医師の数は充足し、敢えて外国からレジデントを受け入れる必要がなくなってきました。このため経済的にゆとりのある国に対する奨学金の枠も縮小されることになりました。
2つ目の原因は、アメリカで実施される外国人留学生への試験内容が難しくなってきたことです。特に1984年から外国人レジデント希望者に実施されている「FMGEMS(外国人レジデント登用試験)」に日本人が合格するには至難の業となりましたが、これは日本人が不得手といわれている英会話力もさることながら、日米両国の医学教育方針の違いが多分に原因となっていると思われます。
その結果、アメリカに留学する日本人レジデント数が激減しました。こうした状況がこれからも続くと新しい外国の医学知識や技術が日本に伝わらなくなり、日本の医学の将来に重大な影響を及ぼすことになります。そして著しい進歩を遂げているアメリカの医学や医療技術が日本にとって疎遠になるということは、世界的な視野で医学・医療を考えなければならない時代にあって大きなデメリットになってしまいます。
経済交流とは程遠い医学交流
こうした状況を鑑み、各国ではアメリカ国内に病院や医学研究所を建設し、アメリカの医学の導入に努めていますが、日本は戦後アメリカとの経済交流を深め、企業進出や海外旅行などで日米間の往来が年々増大しているにもかかわらず、日系病院や日系医学研究所は皆無であり、在米の日本人医師は100人台に激減しています。この数はインド・フィリピンなど他のアジア諸国の在米医師数と比較すると極端に少なく、この点については、例えばアメリカで病気になり医師にかからなければならない時、言葉が伝わらないというもどかしさをもったまま治療を受けなければならない事態を想像すれば、ことの重大さがわかります。
一方、アメリカ側も数万人にのぼる在日アメリカ人がいて、英語で診察してもらえる日本人医師の不足を訴えています。“経済摩擦”を引き起こすほどに盛んな経済交流がありながら、およそ考えられないほど医学交流が停滞しているのが現在の日本とアメリカなのです。
「野口英世の精神」を継ぐ若い医師たちのために、
そして日本の医学の未来のために
このようにもどかしい関係を続けてきた日米の医学交流を、新たにスタートさせることを目的として野口医学研究所は設立されました。21世紀の日米医学の発展、又、世界の医学に貢献する日本である為に、日米医学交流の存続は必要不可欠な状況にありました。
「日本が生んだ世界的医学博士野口英世の偉大な功績を称え、その遺志を継いだ若い医師や医学会を牽引するリーダーを育成したい」という想いと共に、野口医学研究所の活動は始まったのです。
米国財団法人野口医学研究所は、日米を基軸とした国際医学交流を存続させることこそが日本の医学界の未来に繋がると確信しています。