米国財団法人野口医学研究所

Progress

あゆみ

前史

1950-1960年代

戦後の医師不足を補うために、米国は外国人の医学留学生を積極的に受け入れていた。日本からも、年間300人に及ぶ若き医師たちが米国で臨床研究を受けており、米国の最新医学を導入することで、戦後、日本の医学は著しい発展を遂げた。

1970年代

ベトナム戦争終結により、医師・医学生が大量に帰国した為、外国人医師への門戸が閉ざされ、70年代後半になる頃には米国で臨床研修を受ける日本人医師はほぼゼロになっていた。
日本の医学界には権威主義がはびこり欧米に大きく遅れをとることになる。
この状況に危惧を抱いたのが、ペンシルバニア大学で教授を務めていた故・浅倉稔生教授。ペンシルバニア大学は、かつて野口英世が学び、世界的な医学者としての道をスタートした、ゆかりのキャンパスであることから、浅倉教授はペンシルバニア大学の在るフィラデルフィアの地に野口英世を記念とする財団を設立し、日米の医学交流に促進することで第二・第三の野口英世を誕生させる構想を描いた。

Japanese Resident Physicians in the U.S.

設立

1983 米国財団法人野口医学研究所の誕生

浅倉教授はプロジェクトを実現させるべく教え子の浅野嘉久に話を持ちかけ、ほどなくしてフィラデルフィア副市長だったJ. マイケルケニーが実行委員会に加わった。
更に、この構想に賛同した故・日野原重明先生の肝煎りとトーマス・ジェファーソン大学のジョセフ S. ゴネラ教授の提言、そして多くの友の努力によって、遂に野口医学研究所が設立される。

第1段階

1983- 米国先進臨床医学の導入

設立の主要メンバーであるジョセフ S. ゴネラ教授の企画により、日米の医学交流が開始。
米国留学を希望する若き医師や医学生を対象とした医学交流セミナーを定期的に開催し、米国の著名な教授や留学後に日本で活躍している医師らにより、米国医療の現状や留学に必要な知識などを提供。又、米国の医療現場で貴重な臨床経験を得ることができる留学プログラムを実施し始める。

第2段階

2009- ジェネラリスト・ドクターの育成

例えば機内で急病人が発生し「お医者様はいませんか?」を問われた時、「自分は眼科医だから・・・」と医療を施すことが出来ないのでは困る。その為、例え専門医であっても、ニーズに合わせたジェネラルに対応することが必要であるとの考えから、野口医学研究所の医学教育プログラムに於いても、専門に偏りすぎないジェネラルな力を養成することに焦点が当てられるようになる。
日本の卒後臨床研修指導医を対象に、米国のACGMEのトーマス J. ナスカ先生を日本に招いて開催した野口医学研究所主催のトップ会談に於いても、優れたジェネラリストを育成する為にはどうすればよいかについて、活発な議論が交わされた。

野口医学研究所主催
トップ会議

第3段階

2012- Artの心の重要性

トーマス・ジェファーソン大学のチャールズ A. ポール教授は、「”心の触れ合い”こそ、良き臨床医に必要とされる大切な資質であり、患者を物理的に診るだけでなく、心と心で触れ合うことによって、患者の気持ちを理解し、問題を解決に導くことができる」との考えを示している。
そして、その為には、「Art そのものを理解する感性こそが大切だ」と唱える。
こうしたポール教授の影響により、野口医学研究所の医学教育・交流活動では、医療に於ける”Artの心”を重要視するようになる。

第4段階

2016- 医師と患者との間に在るべき共感や心の交流

“Artの心”と共に必要とされるのが、徹底したHumanityの教育である。
段階を経て、現在、野口医学研究所の理念は、医学教育の原点とも言える『Humanity & Empathy in Medicine(患者優先の医療)』に至った。
患者の痛みや苦しみに共感し、「私たちに治させて下さい」という精神で寄り添うことができる医療人の育成を目指し、活動している。

Compassion

– Humanity & Empathy in Medicine –

医学知識や技術の習得のみならず、患者の痛みや苦しみに共感し心に寄り添うことのできる人間性を持ち合わせた医療人の育成に加え、この理念に基づき、商品やサービスを提供していくことを意味しています。